Au Café
2018年8月現在、フジタの大回顧展が開催されています。
せっかくですので今回は、世間的に注目されている機会に便乗して作品をピックアップしました。
藤田嗣治(Léonard Foujita/ 1886- 1968) 独特のタッチの作品を見ると、そんな風に感じます。
実際彼の乳白色の作品群が一気に並んでいるのを見ると、微妙な色合いの白の世界が、不思議な明るさをもって目の前に現れてきます。
それは外からの透明な光ではなく、内側から放たれている種類の、密度の濃い光です。
さて、今回の作品。
描かれている女性の視線はどこか定まらず、でも口元には少しほころびも見え、なんとなく日本人らしい表情の印象を受けないでしょうか。
ちなみにこの頬杖のポーズは、ルネサンス以降「メランコリア」(melancholy) のポーズと呼ばれていますが、物憂げというよりもどこか、あたたかな記憶の断片を思いだしているようにも見えます。
テーブルの上のインク瓶、ペン、封筒、インクの染みた紙などは、フジタが好んで使っていたモチーフ。他の作品にもよく登場します。現代でいえば、せいぜい薄い手帳とタブレット、というところでしょうか。
鮮やかとは言えない画面ながら、細かく見るとクリームやアーモンドブラウン、グレイッシュピンク(テーブルは大理石のようです)、が静かに配置され、魅力的なカラーパレットです。
背景を見ると、ごついワインボトルを運ぶ、わざわざ立派な口ひげが描かれた給仕、シルクハットを被ったムシュー、新聞のラック、カフェの外にはまた別のカフェ。
この絵には、パリが詰め込まれているようです。
パリと藤田とFoujita
フジタとフランスとの関わりは、この作品が制作される35年以上前に始まっています。
画家は、まずマルセイユに到着し、1913年にパリ入りしました。そして住んだのがモンパルナス。モンマルトルから始まった芸術家の街は、この地にも広がっていました。
日本でいうところの文豪喫茶というようなものがパリにもたくさんあり、ここもその1つに数えられています。
フジタの他にはモディリアニ、ピカソ、シャガールをはじめ、エコール・ド・パリのアーティストたちがたくさんの時間を過ごしていました。

2つの大戦に挟まれたこの期間は、外国人があちこちからパリに集まり、アートの分野ではさまざまなスタイルが生まれました。混沌としたエネルギーが、異様なほどあふれていた時代です。
先述したアーティストたちにしても、フジタは日本、モディリアニはイタリア、ピカソはスペイン、シャガールはロシア・・と、ざっとあげてもいかに多種多様なアイデンティティがあふれていたかいうことがわかります。
フジタはその中で、外国人としての葛藤をさんざんに経験しながらも、さまざまなアートトレンド、魅力的なモデルたち、そしてパリという街そのものとかかわりあい、Foujitaというブランディングを確立させていきました。
しかし実際のところ、絵の中の情景をそのまま、よく行っていたカフェと結びつけてしまうのは少々早計かもしれません。
というのも、この作品の制作年は1949年。
今目の前にある日常の一コマとしてではなく、戦前に過ごしたパリを想い描かれた、記憶画だからです。
この作品が制作された時、フジタがいたのはニューヨークでした。
フジタと日本と西洋社会
1913年の渡仏以来、第一次大戦に際しロンドンへ行ったり一時帰国したりとフランスからの出入りはあったものの、基本的なベースはフランスでした。
しかし、第二次世界大戦の際にはさすがに帰国を余儀無くされます。
戦争が終わり、1949年3月、ついに日本と永別。
もとより「日本」あるいは「日本画壇」とどうも折り合いがよくなかった上に、彼が戦争画を描いたことで戦犯の疑いをかけられる。日本との別れを決意するには、充分な理由がありました。
そんな状況で、1949年、再び西洋社会に触れることになります。
懐かしのパリへ・・ではなく、その前にビザが降りたニューヨークへ向かい、フランスからビザがおりるまで、1年半ほどその地で制作。
その年は、多作の年となりました。
時代の寵児だったパリ時代とは違ったスタイル・状況での制作を続けてきた、帰国以後の数年間。
その間に知らずとせき止められていた本来のエネルギーが解放されたかのように、ほとばしるように作品が生まれたのも納得できます。
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