Gustave Caillebotte / 床削り × カベルネ・フラン(前編)

The Floor Scrapers, by Gustave Caillebotte

「おぉぉ、ここにも!」

美術館併設のライブラリでぼーっと画集を捲りながら、無造作に置かれた片隅のワインを見つけた時には、思わず小声で叫んでしまった。

1876年の第2回印象派展にも出展されたGustave Caillebotte (1848-1894)(以下、カイユボット)の「床削り (1875)」である。

筆者の大好きな絵のひとつであり、これまで幾度となく観てきた…
はずなのに、ワインの存在なんぞ、まったく気づいていなかった。誰にもまだ感づかれていないものを独り占めしているような気がして、ニヤニヤが止まらなくなった。

 

本作の舞台は、パリ8区の高級住宅街に居を構えていたカイユボットの邸宅とされる。Rue de MiromesnilとRue de Lisbonneの交差点の角地に建てられた4階建ての邸宅で、今なお現存している。かの凱旋門もそう遠くはない。

父親が事業で成功したことで、カイユボットは画家らしからぬ裕福な生活を送った。絵に映り込んだ壁面の黄金の装飾や手の込んだ窓の格子が、その片鱗を窺わせる。

窓の外に眼を移すと、隣の家の屋根が見える。恐らくここは最上階の4階なのだろう。

そして…

鉋や小刀で床を削る3人の男たち。しなやかで無駄のない肉付きの上半身からは、職人の風格が漂う。中央の男と右側の男は、何か会話をしながら作業をしているようだ。

まばらに削られた床は、遠近法により部屋の奥行きを表現するのに一役買っており、そこに優しく外光が差し込む。散らかった木屑は、絵に躍動感を与えている。劣化による絵の具のひび割れさえも床材にリアリティを与えているようで、何とも深みのある作品に仕上がっているが、さすがに計算高きカイユボットもそこまでの想定はしていなかっただろう。

 

写実主義やバルビゾン派の意志を引き継いだ画家たちの世俗画は、アカデミックな伝統的様式から逸脱しており、宗教画や神話画を重んじたサロン(官展)から低い評価を受けていた。1860年代後半から1870年代前半にかけて、彼らはマネを筆頭にパリ北西部の街バティニョールのCafé Guerboisに集まり、毎晩新しい芸術の在り方について語り合った。そこには若き日のモネ、ルノワール、バジール、ピサロ、ドガといった画家たちの他に、作家のゾラや写真家のナダールらが顔を合わせた。

サロンがほぼ唯一の作品発表の場であった当時のパリにおいて、サロンの審査員に受け入れられなかった画家たちは、反サロンを掲げ自らの手で展覧会を開催するしか、自分たちの主張を世論に訴える術がなかった。「マネ派」や「バティニョール派」と呼ばれた彼らが後に「印象派」を形成することになるのはお察しの通りだが、これが「非妥協派 “Intransigeant” 展」や「印象派 “Impressionnisme” 展」と呼ばれたグループ展を開催する契機となった。

Henri_Fantin-Latour_-_A_Studio_at_Les_Batignolles_-_Google_Art_Project
ファンタン=ラトゥールが描いた「バティニョールのアトリエ (1870)」。筆を持っているのがマネ、帽子を被っているのがルノワール、手前の背が高いイケメンがバジール、一番右側にいるのがモネ

 

カイユボットは、そのような印象派を代表する画家たちと同じ時代を生き、苦楽を共にした画家の1人である。

1874年から1886年までの13年間に合計8回の「印象派展」が開催された中で、カイユボットは1876年の第2回展から参加し「5回」の展覧会に出展しているが、それはピサロやモリゾ、ドガ、ギヨマンに次ぐ参加頻度であり、モネと同数、ルノワールの「4回」よりも多い出展回数であった。

にもかかわらず、「画家」としてのカイユボットは、他の印象派の画家ほど広く名が知れ渡っている訳ではない。何故か…

それはカイユボットが裕福であったことにひとつの要因がある。通常、画家は、自ら描いた絵を売って生計を立てる。一方、金銭的にゆとりのあったカイユボットは己の絵を売却することはせず、また彼の死後も遺族たちが作品を手放さなかったのだ。カイユボットの作品が脚光を浴びたのは、没後100年を記念して1994年にパリのグラン・パレ・ナショナル・ギャラリーで開催された回顧展であり、その間、彼の作品が世に出回ることはごく稀だった。

 

「『画家』としてカイユボットは…」と記載したが、実はカイユボットの功績はもうひとつある。寧ろ、こちらの方が意義が大きいという評論家すらいる。カイユボットは作品を制作する傍、自らの財産で友人たち、すなわちピサロやモネ、ルノワール、シスレー、ドガ、セザンヌらの絵を買い上げ、経済面で彼らを支援したのだ。

ここでひとつ、「パトロン」としてのカイユボットに纏わるエピソードを紹介しよう。

1874年、第1回印象派展のあった年に76歳の父親と24歳の弟ルネがあい次いで死亡する。26歳のカイユボットは自分も早世すると思い、遺言状を作成した。そのなかで彼は、印象派画家たちを擁護し、彼らの作品を購入し、そのコレクションを自分の死後国家に寄贈することを認めた。1894年にカイユボットが死亡したとき、カイユボット・コレクションの寄贈問題をめぐって国家の側と友人・遺族との間に論争が起きた。アカデミーが主催するサロンに反抗して成立した印象派グループの作品を国家が受け入れることに対して、アカデミーやサロン派の画家だけでなく、ジャーナリズムや一般の公衆からも反対意見が提出されたのである。2年あまりの議論のすえ、80点近いコレクションのうち約半分を受け入れることで妥協が成立した。

(中略)

こうした経緯から、カイユボットは印象派画家の擁護者・コレクターとしてのみ評価されがちである。

池上忠治責任編集 (1993)『世界美術大全集 第22巻 印象派時代』 小学館 277.
島田紀夫「印象派の風景画家」

 

カイユボットは、死後に自身のコレクションがフランス政府の買い上げとなることを望んだ。それはすなわち、それまで陽の目を見なかった「印象主義」というある種「異端」とも言える思想を国家に認めさせようとする行為でもあった。彼の思う通りすんなりとはいかなかったが、ルノワールらの尽力もあって、40点近くは政府に買い上げられた。

いわゆる「カイユボット・コレクション」は現在、印象派絵画の蒐集で有名なとある美術館の展示の中核を成す作品群となっている。それが…パリのオルセー美術館である。

Pierre-Auguste_Renoir,_Le_Moulin_de_la_Galette
「カイユボット・コレクション」の中には、ルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会 (1876)」等、オルセー美術館の展示の中核を成す作品が数多くあった

 

もしもカイユボットが存在していなかったら、印象派の画家たちも経済的に活動を続けられなかっただろうし、フランスの「至宝」も国内に留まることはなかっただろう。「画家」の顔と「パトロン」の顔を併せ持つカイユボットは、本来もっと注目を浴びて然るべき人物なのである。

《後編に続く》

 

Gustave Caillebotte “Les Raboteurs de parquet” (1875) オルセー美術館所蔵

Written by Fumi “Frank” Kimura

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