魅力の側面
長い黒髪、はだけた白いブラウス、明らかに就寝着ではない服を着たまま、よく見るとブーツも履いたまま。
それでもその肌の麗しさや、キリッとした造形の顔が、彼女を魅力的に魅せています。
彼女がただ、ひとり懸命に生きる無垢な存在だという欠片が、投げ出された白い腕から見てとれるような気がします。
しかし、周りの評価はそうはいきません。
大体において、誰が見ても “一目で 可愛く魅力的” という印象の女性が描かれるこの手の作品は、画家の意図がどうであれ、綺麗事ではない解釈をされることがほとんどです。(もっとも有名どころでは、マネのオランピア然り)
例にもれず、この作品も、仕事を終えた娼婦の休息か、そうでなくても賑やかだった夜のその後、という程の解釈をされています。
ですが、同時代に描かれた( 実際、もっと重要視されている)ムンクの他の作品群を見れば見るほど、私はここに、ムンク自身の「休息」があるのではないかと思うのです。
ベルリン時代
この作品が制作されたのは、ムンクが最初にベルリンに滞在していた時期でした。(ちなみに世界的には、この翌年に現代オリンピックの第一回目が開かれるようなタイミングです)
画家として非常に重要なターニングポイントで、この時に作風がガラリと変わります。ムンクにとっては大変に精神不安定な時期でしたが、ベルリン分離派というグループが生まれるきっかけとなった、大批判に晒される個展が開催され、北欧のアーティストたちとも積極的に関わりを持っていました。
彼らとは哲学についても論じ合い、内面を描いていくムンクにとって、ショーペンハウエルやニーチェを深く知っていくことには、重要な意味合いがあったでしょう。


ほかにも「マドンナ」「星月夜」「吸血鬼」など、名だたる代表作が同時期に生まれました。
ちなみに、「星月夜」といえばゴッホが有名ですが、やはり相当の精神不安定時期だったと言われます。
さて、そんな中、この静かな作品。
女性はぐっすりと眠っています。
たとえ無表情でも、もっといえば顔が見えなくても、人間は起きてさえいれば何かを語っています。
それどころか、死すら、そこに無言のメッセージを発しているでしょう。
しかし眠りとは不思議なもので、そこに意味を見出すことはできません。
死よりも無。そこに「息づき」はありますが、「魂」あるいは「自我」が、抜け落ちているようです。(少なくとも「死」には起きている魂の存在が、どこかにあるような気がします)
「不安」「嫉妬」など、人間の内面をそのまま取り出したような、おどろおどろしい名画がたくさん生まれる最中、ただ目の前の情景を捉えたような作品が描かれたのはなぜか。
人生の伴侶


パリ留学の際には、厳格な父親から離れたこともあってか華々しい女性関係も持ちます。ただ、同時になかなか幸せな恋愛関係が結べなかったことも知られており、自身は生涯独身だったのにも関わらず法に則らない恋ばかりだったり、奔放すぎる相手に嫉妬で苦しんだり、結婚を迫られ銃の暴発事件が起きたり。
なかなか女性に幸せなエピソードがありません。
2つの死の出来事が、生きていく上でムンクに根源的影響を与えることは避けられなかったでしょうが、自身の身体的弱さも手伝って、それが女性との穏やかな関係をも難しくしてしまったというのも十分考えられます。
とはいえ、ムンク自身「芸術家は孤独でなければならない」という言葉も残しているので、「幸せな結婚」ということに関しては、ある程度無意識の意志で制御していたのかもしれません。
実際、別の理由ではありますが、弟の結婚にも反対しています。
さて、そんな中、身体になんの意味も湛えず、健康で、気持ちいいくらい深く眠る姿は、彼にとってはむしろ貴重な姿だったのではないでしょうか。
ムンクにとっては、ワインの1、2本なんてまったくかわいいものに見えたでしょう。
Edvard Munch “The Day After”/ 1894-95 オスロ国立美術館
Written by E.T.
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