最後の一杯
名作を生み出し続けながらも、同時に精神不安定な時期だったということはすでに書きました。とはいえ、生活にも慣れ、語り合う仲間もおり、そこには「日常」「平常」もあったはずです。ムンクの描いた、数少ない「平常」を垣間見られる一枚に登場するワイン。
寒いドイツですが、ワインは多く生産されています。今ほど活発に輸出入が行われていたわけではありませんから、日常的に部屋で飲む程度のものなら国産ワインでしょう。
ボトルの色からしてみると赤ワインですが、ドイツではこんな茶色のボトルに赤いキャップシールの白ワインもないことはなく、迷うところです。コップに少し残った液体も、水なのかワインなのか判別不能。
この当時はまだ、赤ワインの生産量はとても少なかった同国。今ですら、全体の生産量の35%程度を占めるに過ぎなく、さらにこの数字は近年急激に伸びたもので、120年前ともなるととても微小だったはずです。
ですが、あえてここでは赤ワイン、ということにします。
理由のひとつは、これがこの女性(と他の誰か)が前日 最後に飲んだものであること。
外出着のまま横たわっているのですから、すでに相当飲んでから帰宅後しばらく部屋で飲み続け、そのままぐっすり、というのが自然です。
ここはベルリン。手に入りやすい白ワインは酸味豊かなものがほとんど。
シャルドネのようなこってりしたものならまだしも、ベッドサイドで飲む夜の最後のボトルに、そんな爽やかなお酒を飲みながらという気分にはならないでしょう。すべらかな赤ワインを最後に眠りについていただきたい。
Spätburgunder (シュペートブルグンダー)
赤ワインだったら何が飲めるのか。最近では少し選択肢も広がるでしょうが、舞台は100年以上前。
ドイツ国内で生産される黒ぶどうは限られています。
それが、17世紀から栽培されているというシュペートブルグンダー。
聞き慣れないし、読むことすらも一苦労のぶどう品種。
でも実は、ちょっとでもワイン好きなら誰もが知ってるぶどうです。
シュペート=遅い
ブルグンダー=ブルゴーニュの
ドイツ語で「晩熟のブルゴーニュのもの」という意味を持つぶどうなのです。
ブルゴーニュの黒ぶどう品種といえばもちろん、ピノ・ノワール。
そしてボトルの色が茶色いことから、ラインガウ地方のワインだということがわかります。
もうひとつの理由はもっと単純です。
実はこの作品には、油彩完成後に作られた版画バージョンがあります。
こちらを見てみると、ボトルは真っ黒に描き込まれています。中身が満杯の状態ならまだしも、状況的には空く寸前であろう状態でこのボトルの佇まいは、どう見ても赤ワインでしょう。
白ワイン
ところで、ムンクは自画像をたくさん残していることでも有名ですが、その中に「ワインのある自画像」というのもあります。茶色いスリムなボトルは、いかにもドイツワインらしい外観です。ここで飲んでいるのはドイツきっての銘ぶどう、リースリングでしょう。
ドイツのワインボトルはヨーロッパの中でも個性があって面白いです。すらりとして微妙な色の違いが豊富なボトルは、並べるとシックなステンドグラスのようでうっとりしてしまいます。
貴重な一本
さて、このブログでも登場頻度の高い「フィロキセラ」事情にも触れておきます。
このぶどうの木の病気については FrankさんがToulouse-Lautrec / 快楽の女王 × シャルドネの回で書いてくれています。
ちょうどこの作品の完成と時を同じくした1895年、この病気はドイツ全土に広がってしまいます。
作品の制作が始まったのは1894年で、その時に目の前にあったワインを描いたとしても1893年あたりのものですから、このワインはギリギリ難を逃れたことになります。さらに、1892年に「ドイツワイン法」というものが施行された直後でもあり、その質を求めた造りであることが窺えます。
プレ・フィロキセラに生まれ、品質保障されたワイン。
そんなことはムンクもこの女性もまったく意に介していないでしょうが、後から見れば、偶然にも非常に貴重な一本だったと言えるでしょう。
Edvard Munch “The Day After”/ 1894-95 オスロ国立美術館
Written by E.T.
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