Vincent van Gogh / 赤い葡萄畑 × グルナッシュ(前編)

Red_vineyards

 

最初に謝っておくことがある。
今回、なんと!まさかの!!ワインがない!!!

ブログのコンセプトを早々に破ってしまうのは如何なものかと思いながらも、たまにはそんなこともあって良いのかな…とも思っている。何とも楽観的な性格であるが、日頃の善き行いに免じてお許し頂きたい。

 

さて、今回はVincent van Gogh (1853-1890)(以下、ゴッホ)の「赤い葡萄畑 (1888)」を取り上げる。

ワインはなくとも、名の通り、そこには一面のブドウ畑が広がっている。舞台は南仏アルル、画中に流れる河は街を縦断するローヌ川の支流だろう。厚手の作業着を着た人々がブドウを収穫しているところを観ると、いよいよ深まりつつある秋の冷気が伝わってくる。

ブドウ畑が「赤い」のは、完熟した黒ブドウの収穫を行なっているから…という理由の他に、沈みつつある夕陽を浴びているから…といった意味合いもあるのだろう。

「夕焼け空」や「水面」に良く表れているゴッホ特有の筆致は、数少ない友人の1人であり新印象派の代表画家として知られたPaul Signac (1863-1935)(以下、シニャック)の点描とどこか似たところがあるが、分割主義的な、つまりシステマティックな短いタッチを塗り重ねる画法は、ちょうどシニャックと出会った1887年の春頃から絵に取り入れられるようになった。

interior-of-a-restaurant-1887-1
1887年6-7月にかけて描かれた「レストランの内部」は、ゴッホによる最も繊細な「点描」と言えよう

 

ゴッホは実に多くの「手紙」を残した。ゴッホ美術館監修のサイトに拠ると、ゴッホが書いた手紙820通、受け取った手紙83通をそれぞれ確認済みであるという。ゴッホの弟であり、良き理解者・支援者でもあったTheodorus van Gogh (1857-1891)(以下、テオ)とのやり取りがその多くを占めるが、「手紙」のお陰で比較的詳細にゴッホの足取りを追うことができる。

 

ゴッホがパリを離れアルルに到着したのは1888年2月、数えで35歳の冬のことだった。

「アルルの跳ね橋」「種まく人」「ひまわり」「夜のカフェテラス」「アルルの寝室」…
ゴッホはアルルにわずか1年数ヶ月しか滞在しなかったが、彼の代名詞として後世に受け継がれることとなる作品を次々と描くことになる。

一方で、精神的に非常に不安定な時期でもあった。ゴッホが自ら切り落とした左耳を女性に送りつけた「事件」が起きたのは、「赤い葡萄畑」を描いた翌月の、1888年12月のことである。

画家として充実した日々を送っていたはずなのに、ゴッホはどうしてそこまで追い詰められていたのだろうか。実はそのカギを握っているのが、前々回に取り上げたPaul Gauguin (1848-1903)(以下、ゴーギャン)に他ならない。

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1888年9月末にゴッホが弟のテオ宛てに送った手紙。ゴッホがアルルで拠点としていた「黄色い家」のスケッチが同封されていた

 

ゴッホとゴーギャンの出会いは、ゴッホがアルルに旅立つ数ヶ月前の、1887年の冬のこと。ゴーギャンがカリブ海のマルティニーク島から帰還した直後に、弟のテオを通じて知り合った。テオは国際的に事業を展開していた美術商グーピル商会で、パリのモンマルトル支店長に任命されており、多くの画家と交流があったのだ。

ゴッホは出会ってすぐにゴーギャンの才能を確信した。ゴッホはのちに画家のÉmile Bernard (1868-1941) 宛てに、次のような手紙を送っている。

「ああ、きみがゴーギャンのことを考えるのはまったく正しい。彼が描く黒人の女たちには高貴な詩情がある。彼の手になるものはすべてやさしく、悲痛な、驚くべき性質をもっている。人々はまだ彼を理解しておらず、ほかの真の詩人と同じように、絵が売れずに大変苦しんでいる。」

Sjraar van Heugten (2016)
「ファン・ゴッホとゴーキャン − 現実と想像」『ゴッホとゴーギャン展』図録.

 

ゴーギャンが金銭的に苦しい生活を送っていたことは「Paul Gauguin / 白いテーブルクロス × ガメイ(後編)」で述べた通りだが、ポン=タヴァンに滞在していたゴーギャンをアルルに呼び寄せたのも、一緒に共同製作すれば弟テオからの資金援助でゴーギャンの生活費・活動費を賄えると考えたからであった。それ以上に、画家としてのゴーギャンを尊敬していたであろうことは言うまでもないが…

ゴッホからの熱い誘いに応じて、ゴーギャンもアルルに移ることになる。ゴッホと出会って1年ほど経った1888年10月末のことである。まもなく2人は、ゴッホが拠点としていた「黄色い家」で共同製作を始めた。

新たな取り組みは当初順調であり、連れ立ってアルルの街を歩き、モティーフの同じ絵を2人で何枚も描いた。実は「赤い葡萄畑」にも、対となるゴーギャンの作品がある。「葡萄の収穫 − 人間の悲哀 (1888)」(オードロップゴー美術館所蔵)である。

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南仏アルルで見かけるはずのない、ブルターニュ地方の伝統的衣装を身に付けた女性を、ゴーギャンは「想像で」描いた

 

だが、順風満帆に見えた共同製作も束の間のことであった。
ゴッホとゴーギャンには、そもそも相容れることのない根本的な考え方の違いがあったのだ。それが、共同製作を始めて4週目の、ある雨の日に露見した。

雨天のため屋外での製作ができなかったこともあり、ゴーギャンはゴッホに想像に基づく製作を勧めた。ゴーギャンの特徴として “Synthétisme”、すなわち「物質内部から出るエネルギーを感じて、写実性にこだわらず、絵に思想的内容を盛り込もうとする画法」が挙げられることは従前述べた通りであるが、「写実性にこだわっていた」ゴッホにはゴーギャンの考えが理解できなかった。その頃から2人の間に歪みが生じていった。

12月に入り、ゴーギャンはゴッホの弟のテオ宛てに次の手紙を送っている。

「フィンセント(=ゴッホ)とわたしは、性格の不一致のために、問題なく一緒に暮らすことはできない。彼もわたしも、製作するためには平穏が必要だ。」

森美樹 (2016)
「ファン・ゴッホとゴーキャン − アルルでの共同生活の記録」『ゴッホとゴーギャン展』図録.

 

図らずも、ゴッホの「赤い葡萄畑」とゴーギャンの「葡萄の収穫 − 人間の悲哀」にもその傾向が観てとれる。片やゴッホが「ブドウの収穫」をテーマに情景に対して素直に描写している一方で、ゴーギャンは「ブドウの収穫」のシーンを背景として「人間の悲哀」を観る者に訴えかけようとしている。主題が異なるのである。

ゴッホは、ゴーギャンとの心理的距離が徐々に広がっていくことを察する中で、次第に精神を病んでいった。己の唯一無二の理解者だと確信していた者からの裏切りと捉えたのだろうか。

1888年12月23日の夜、激しい口論の末、ゴッホはゴーギャンの去った「黄色い家」の中で自らの左耳を削ぎ落とした。

 

《後編に続く》

 

Vincent van Gogh “La Vigne rouge” (1888) プーシキン美術館所蔵

Written by Fumi “Frank” Kimura

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