小鳥の囀りが聴こえる。軽やかで珠を転がすようなその美声の持ち主は、ヒバリだろうか。時折混じる低音の振動は、隣家の軒先で育ったツバメが巣立ちを迎えた証左である。
夏に移ろひて久しい6月の終わりにも関わらず、冷んやりと涼しい空気が張り詰める午前10時過ぎ。
思い起こせば、今年の冬は特に長かった。暦上は4月にも関わらず、素直に春の訪れを祝えない、そんなもどかしい日々が続いた。遅ればせながらも漸く春めいてきたかと思ったら、忘れ霜も降った。
「今年のワイン造りは大変そうだな…」
シダネルはフランス最北のオー=ド=フランスに属する小さな街ジェルブロワの邸宅で、ぼそっと独り言を呟いた。愛する妻ナヴァールはヴェルサイユの別宅に置いている。決して仲が悪い訳ではないが、晩春から夏にかけて独りでジェルブロワを訪れるのが、ここ数年のシダネルの「しきたり」である。
正直、シダネルにとって、ワイン造りなどどうでも良かった。今年もまた、庭一面のバラが満開を迎えた。ただそれだけで、充分だった。
シダネルは、いつもの晴れた日と同じように、庭で朝食の準備を始めた。朝食…というか、殆どブランチである。
やはりクロワッサンは欠かせない。la Société des Amis de Gerberoy(ジェルブロワを愛する会)の友人からもらった夏野菜も塩胡椒で軽くソテーした。特にこの時期のズッキーニは格別である。籠いっぱいのフルーツは、旬の桃と出始めのマスカット、そしてレモン。爽やかな1日の始まりに合わせて、ワインは芳香豊かな白ワインにしよう。
ブランチの準備が一段落し、シダネルは庭園に眼を向けた。
「今日はこの白い枝垂れバラを部屋に飾ることにしようか」
庭中に咲き乱れる数えきれないほどのバラの中から、シダネルは2本のアイボリーを優しく摘んだ。出来上がったばかりの食事に、手を付けることも忘れて…

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今週はフランスの画家 Henri Le Sidaner (1862-1939)(以下、シダネル)を取り上げる。Pierre Bonnard (1867-1947) の回でも触れた “Intimism(アンティミスム)/ 親密派” の画家として説明されることが多いが、その特徴である「親しい家族や友人、ペット等の身近な対象物をモティーフとした」室内画が多い訳では決してなく、寧ろ風景画を好んで描いた。画風的には Georges Seurat (1859-1891) や Paul Signac (1863-1935) らの “Neo-Impressionism / 新印象主義” の影響を色濃く受けているように覚える。
シダネルの知名度は日本ではまだ低い。筆者の知る限り、2011-2012年にかけて損保ジャパン東郷青児美術館やひろしま美術館等で本邦初となる回顧展を行なって以降、纏まった個展は開かれていない。また、国内で常設展示されている作品もそう多くはない。
日本では「シダネル」の名前よりも「バラの街ジェルブロワ」の方が広く知られているかもしれない。毎年5月から7月にかけて、旅行代理店各社がこぞって「ジェルブロワとジヴェルニーのバスツアー」を企画するからである。「ジヴェルニー」にはかつて Claude Monet (1840-1926) が住み、かの有名な連作 “Les Nymphéas / 睡蓮” の池や日本風の太鼓橋が架かった「モネの庭園」がある。それと並んで「フランスで最も美しい村」のひとつと称されるのが「バラの街ジェルブロワ」である。

実はこの「バラの街ジェルブロワ」、シダネルと非常に深い因縁がある。各地を転々としていたシダネルがジェルブロワに居を構えたのは1901年の初春、陶芸家の Auguste Delaherche (1857-1940) に移住を勧められてのことだった。
当時のジェルブロワは、フランス王位の継承権を巡ってイングランドとフランスが戦った百年戦争 (1337-1453)、特に1435年に起きた「ジェルブロワの戦い」の戦火に見舞われ、その後何世紀も荒廃したままの土地であった。シダネルの曾孫で美術史家の Yann Farinaux-Le Sidaner 氏(翻訳:小林晶子氏)は、当時のジェルブロワの様子を以下のように伝えている。
彼は、サン=タマン (Saint-Amand) 小路の突当りに、適当な物件を見つけた。以後、彼が、生活と制作を共にすることになる場所である。不規則な形の小さな中庭の周りに、4つの建物が配置されており、それらは、教会の鐘楼によって見下ろされている。もともと教会付属の修道僧の住居となっていた古い家で、簡素なものであったが、かなりの規模をもっていた。中庭の階段をあがると、大きな庭に出る。それは、さらに小道の巡らされた風変わりな丘に続く。そんな不思議な備えのすべてが、彼を虜にした。
彼が訪れた当時、村の中央にかつてそびえていた天守閣の塔も、城壁をなしていた高い壁も、そのほとんどが取り壊されており、あちこちに、その遺構がわずかに残されているにすぎなかった。ル・シダネルが見つけた家は、放りっぱなしだった果樹園の上に作られたもので、古い城塞が埋まった遺跡のすぐ横に隣接していた。
Yann Farinaux-Le Sidaner (2011)『アンリ・ル・シダネル展』図録.
シダネルはジェルブロワに移り住むとすぐに庭の改良を始めた。丘の頂上部には自らがデザインした離れ屋を造り、その周りにバラ園を作った。1909年に la Société des Amis de Gerberoy(ジェルブロワを愛する会)が組織され名誉会長となると、1913年には全国組織の Rosatis(バラの会)にも入会した。また新しい居住者たちには、住宅の外壁にバラを植えることを勧めて歩いた。
そのようなシダネルの行動を目の当たりにしたジェルブロワの住民たちも「だんだん競うようにして自らの家を、そして町全体を、薔薇をはじめとする各種の花で飾っていった」(出典:前掲と同様)という。次第に「バラの街ジェルブロワ」の名は全国に広まり、遠方からも人が訪れるようになった。毎年6月の第3日曜日に開催されている「ジェルブロワのバラ祭り」もシダネルが街をバラで埋め尽くそうとした当時からの名残である。

本作にも右手前の椅子の上に「白い枝垂れバラ」が描かれているが、見落としがちな何気ない描写であっても、そこにはシダネルのジェルブロワに対する深い愛情と希望が満ち溢れているのだ。
《後編に続く》
Henri Le Sidaner “La Table Bleue, Gerberoy” (1923) シンガー美術館所蔵
Written by Fumi “Frank” Kimura
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