「名画のワイン」を調べていると、ワインと同じくらい、もしかするとそれ以上の頻度で見かけるお酒がある。しかも決まってどこか荒廃した空気とともに「それ」は描かれる。古い文学作品では La Fée Verte… 即ち「緑の妖精」と呼ばれていたが、その立ち振舞いは「妖精」ではなく、まるで「悪魔」である。
Absinthe… アブサン。その響きは実に不気味である。日本ではどうだろう、一部の飲食関係者以外にはあまり馴染みはないかもしれない。それもそのはず。いっときは各国で製造・販売が禁止になったほど、異色なお酒である。
アブサンの主原料は「ニガヨモギ」と呼ばれるヨモギの一種。トップの画像は1800年代後半に Hermann Adolph Köhler (1834-1879) らにより出版された “Köhler’s Medizinal-Pflanzen / ケーラーの薬用植物” に掲載されている「ニガヨモギ」のスケッチであるが、学術的分類からしても、葉は春菊に似ているように思える。
名の通り、苦い。新約聖書にも以下の一文があるように「苦さ」や「苦痛」の象徴として古代から登場する植物である。
第三の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が、空から落ちてきた。そしてそれは、川の三分の一とその水源との上に落ちた。この星の名は「苦よもぎ」と言い、水の三分の一が「苦よもぎ」のように苦くなった。水が苦くなったので、そのために多くの人が死んだ。
新約聖書 ヨハネの黙示録 第8章10-11節.
独特のフレーヴァーから駆虫薬・防虫剤にも使われることがあるが、歴史的には医薬品原料として考えられることが多かった。20世紀に入ると、ニガヨモギに含まれる「ツヨン」と呼ばれる物質に麻酔作用や幻覚作用が含まれることが発覚しその中毒性が問題になったが、1981年に世界保健機構(WHO)から許容量の範囲内であれば使用して良いことが定められ、アブサンの製造・販売も再開されることになった。ニガヨモギを原料としたリキュールはアブサンが有名だが、フレーヴァード・ワインの「ヴェルモット」も白ワインにニガヨモギ等の薬草・香草を浸して造られる。
さて、アブサンといふお酒。
アルコール度数は高いもので80度を超え、苦さを中和するために角砂糖を溶かして水で割って飲むこともある。元々は緑色を帯びており、アニスも原料に含まれるため水を入れると白濁するが、仄かにヨモギ色も残るため得も言われぬ独特の外観となる。
歴史上にアブサンが登場するのは、1790年のスイス。フランス人医師の Pierre Ordinaire が薬用酒として開発し、その後世界的酒造メーカー Pernod Ricard の前身に処方箋を渡したことで市販されるようになったという。

それから半世紀、1800年代後半にかけてのパリ。アブサンは庶民でも安く手に入れることができるようになった。恐らく、相次いだブドウの病害(ベド病、ウドン粉病、フィロキセラ等)により減産を已む無くされたワインに代わり、庶民に広く普及したという側面もあるのだろう。
特に Belle Époque を謳歌したモンマルトルのボヘミアンたちからの支持は厚かった。それだけに留まらず、多量摂取に伴う「ツヨン」の中毒症状により、身を滅ぼした者も少なくなかった。
その幻覚作用を題材として、複数の画家が絵を描いている。
いずれもテーブルの上にはコップ1杯のアブサン、幻覚により頭を抱えた男性の隣に艶かしい緑のミューズが寄り添う。「妖精」なのか「悪魔」なのか。それは観る者次第ではあるが、左の Viktor Oliva (1861-1928) の作品はチェコ プラハの歴史あるカフェ Café Slavia の店内に掛けられていたものであるから、ある種の「飲み過ぎ注意!」的な意味合いも含んでいたのだろう。

後編では、主に印象派の画家たちのモティーフとされた「アブサン」について取り上げていこうと思う。
《後編に続く》
Hermann Adolph Köhler et al. “Köhler’s Medizinal-Pflanzen” (c. 1887)
Written by Fumi “Frank” Kimura
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