1871年の暮れ、Claude Monet (1840-1926)(以下、モネ)はパリ近郊のアルジャントゥイユに移り住んだ。セーヌ河のほとりの、人口1万人にも満たない小さな都市である。
前年、7つ歳下の女性 Camille Doncieux (1847-1879)(以下、カミーユ)と入籍したのも束の間、フランス帝国はプロイセンと戦争を始めた。実は入籍する以前に息子 Jean Monet(以下、ジャン)は既に生まれていた。
幸せの絶頂なのに…モネは自分の悪運を怨んだ。このままでは徴兵されてしまう。10年ほど前に兵役でアルジェリアに赴任したことがあるが、チフスを患って直ぐに帰還した。もう二度とそんな経験はしたくなかった。愛する女性と息子がいたら…尚更である。
隣には、木漏れ日の中で幸せそうにうたた寝しているカミーユとジャンがいる。
モネはロンドンに逃れる道を選んだ。それは正しい選択だった。戦火に巻き込まれた画友でもあり親友でもある Frédéric Bazille (1841-1870) の訃報を遠く離れた地で耳にして、改めてそう確信した。冬の寒さが心に響いた。
父親の死も重なった…
1871年5月、普仏戦争が終戦を迎えると、モネはパリに戻った。カミーユとジャンという唯一無二の「光」は得たものの、フランスを離れているうちに2つの大切なものを失った。もはや満身創痍だった。
パリを出よう。いや、そんな前向きなものではなかった。出るしかなかった。新たな一歩を踏み出すために。
そうしてモネは汽車に乗り込んだ…
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今週は印象派を代表する画家モネの “Le Déjeuner / 昼食” である。モネがアルジャントゥイユに移住してまだ日も浅い、1873年、33歳の時に描いた作品である。
「印象派」と呼ばれる契機となった “Impression, Soleil Levant / 印象、日の出” が作製されたのが1872年。当該作品が出展された第1回印象派展が開催されたのが1874年。
哀しみに包まれながらパリを出て1年半が経ち、時の流れが少しずつモネの傷を癒した。いや、寧ろ、サロンに対して反旗を翻そうとする意識が、哀しみを打ち消したのかもしれない。
普仏戦争の終戦と1873年後半から始まる欧米大恐慌の狭間の一時的な景気回復期(復興景気)において、モネの若き才能を見出した画商 Paul Durand-Ruel (1831-1922) が同氏の絵画を買い占め、金銭的なゆとりが生じたことも、モネが再び自信を取り戻す一因となった。

まず、本作の舞台となった「アルジャントゥイユ」という街について触れておこう。
パリ中心部から北西12kmほどの位置に所在するセーヌ河畔の街。
19世紀半ばに鉄道が敷設されると、パリのサン=ラザール駅から20分程度で訪れることができたアルジャントゥイユは、流行に敏感なブルジョワジー達で溢れるようになった。ある者はセーヌ河にヨットを浮かべ、またある者はヒナゲシ畑で蝶と戯れた。

新たなモティーフを追うかの如く、画家もこの地を訪れた。モネと特に親交が深かった Édouard Manet (1832-1883) や Pierre-Auguste Renoir (1841-1919)(以下、ルノワール)は、モネの住まいを訪れては一緒に戸外活動に励んだ。Alfred Sisley (1839-1899) や Gustave Caillebotte (1848-1894) といった印象派の画家たちも、アルジャントゥイユもしくはその近郊に住んでいた。
下掲は、モネ(左列)とルノワール(右列)のアルジャントゥイユにおける風景画だが、特に下段の2つは意図的に同じ構図で制作されていることが分かる。セーヌ河に架かる鉄道橋とそこを走る汽車を、まるでイーゼルを隣に並べて描いたかの如く、角度と言い、ぴったり一致する。

さて後編では、本作の中身、そして肝心のワインについて触れていこうと思う。
《後編に続く》
Claude Monet “Le Déjeuner : Panneau Décoratif” (1873) オルセー美術館所蔵
Written by Fumi “Frank” Kimura
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